2015.06.12 Friday
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稽古週報刀の縁で道場に集う者たちの、斬れる喜び、斬れない悩み。
斬った・斬れないだけでない、武徳院での日々をレポートします。 非日常的な刀が、いったい自分にとって如何なる存在なのかを模索する歩み、周り道・迷い道の足跡が稽古週報に記されてゆきます。 ただし、稽古の道の途上ゆえ、勝手な思いこみ、勘違いもあるやもしれませぬ。ご勘弁を……。
師範の大伯父である作曲家・須賀田礒太郎の作品を集めたCD。小松一彦指揮、
神奈川フィルハーモニー管弦楽団演奏。音楽評論家・片山杜秀さんによる渾身の
解説つき。
須賀田礒太郎についての細かいことはbutokuin.comにて。 ・ タワーレコード ・ HMVジャパン株式会社 パンクとは、音楽スタイルや外見などではなく、生きる姿勢、生きザマだということが、このアルバムから伝わってくる。PUNK IS ATTITUDEだぜ!
ラモーンズのベスト盤といえば、これだ!「1,2,3,4!」ではじまる軽快なパンクワールド。これ聴いて、元気になって、「Hey,Ho,Let's Go!」どっかにブッ飛んでんでいきたくなるぜ!
美は乱調にあり、あるいは、美は性を超える。あまりにも美しいから儚げにも見えるが、発表から30年以上経た今も聴き続けられるのは、実はその強さゆえなのだろう。
U2のアルバム、ベストは多々あるけど、やはり現在進行形が一番彼等らしい。来日公演の一曲目「City of Blinding Lights」の中のOh You Look So Beautiful Tonight!という一節で、バンドと観客が一体化した時の熱さと感動は忘れられない。
日本人によるRock&Punkの真骨頂。<ヤニで固めてるタンクちぎれて あふれだしたんだ「愛という憎悪」>一撃必殺のキラーチューン満載だね。
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2011.10.09 Sunday
沸と匂 :しむらとこも
日本刀の鑑賞用語は難解だ。
沸(にえ)と匂(におい)もそのひとつ。 「平安から鎌倉の太刀には豊かな沸が…」「備前刀は匂出来が多い」 などと書かれていても、さっぱりイメージがわかない。 感覚的にとらえるしかない世界なのだろうと思っていた。 だが、『日本刀は素敵』の解説は平易で明快。 赤く熱した刀を急激に水に浸ける「焼き入れ」の科学変化で、 鋼の組織の一部「マルテンサイト」が結晶体になる。 その結晶体の大きな粒が沸(にえ)、小さな粒が匂(におい)なのだと。 その小さな結晶体が、集まったり散らばったりして刃文を描き出す。 理屈がわかれば全部わかる、見える、わけではないけれど、 見えないものを、まるで見えているように語っていた「裸の王様」の家臣たちとは違うのだった。 理屈で解明されていない室町の時代だったからこそ、 目利きたちは、「沸(にえ)」とか「匂(におい)」という言葉で表現したのだろう。 過去の物だからと、わけもわからず有り難がって鵜呑みにするのでなく、 今なりの解釈を重ねて、自分の目で見る。そういう目をもてるようになりたいと思った。 2011.07.04 Monday
「伝統」 :とこも
暗闇にライトアップされて浮かび上がる「太陽の塔」。大阪万博をリアルタイムで体験した自分にとって岡本太郎といえば、あれであり、幼稚園児には、奈良の大仏と同じくらいでかくて、へんてこで、不思議な物体だった。
あの奇抜な物体をぶつけてくる太郎と「伝統」は、私には対極でしかない。伝統など眼中にない人だったからああいうものが作られたのだろうと、勝手に思い込んでいた。それが日本庭園の石を語る!??!??? 内容は、リアルタイムで岡本太郎の本に出会っていた人には叱られそうだが、いまさらながらにとても斬新でおもしろかった。 太郎は、あのままのパワーで「伝統」に向き合い、ぶつかっていた。伝統など眼中にないどころじゃない。 太郎は、伝統といわれるものを見てまわるなかで、気づく。
伝統を有り難がって現在をいやしめていないか、過去の側にたっていないか。自分たちは小指の先だけでも力をかしたわけではないのに、過去を権力のようにふりかざしていないか。ただの観光客のガイドになっていないか、と。 太郎は、いまそれを見ている人、が大事だと言う。主体が丸きり逆だ。 「伝統は自分にかかっている。おれによって生かしうるんだ、と言いはなち、新しい価値を現在に創りあげる。伝統はそういうものによってのみたくましく継承されるのです。形式ではない。受けつがれるものは生命力であり、その業−−因果律です。」
…これって、刀をめぐって武徳院がやろうとしていることじゃないー?と思った。 ちょうど同時に、知り合いが『いっしん虎徹』(山本兼一著)という時代小説を貸してくれた。 「コテツ」は、新選組局長・近藤勇の愛刀と言われ、講談などでの決めセリフ「今宵の虎徹は血に餓えている」で知られている。 刀は知らなくても、名前は聞いたことがある人も多いだろう。大量のコピー・偽者が出回っているほど大人気の名刀だ。 虎徹が、刀鍛冶になったのは50歳すぎ。腕のよい甲冑師だったが、時代は太平へ。関が原の戦を知る年寄りも少なくなって…というころの話しだ。 実際の戦がないので、試し斬りで斬れ味を知る、なんだか本末転倒のようだが、そんな時代になっても、刀は特別な存在になっていた。 金になるからと、けなげに向こう槌を振るってきた病気の奥さんのために甲冑師から転向、という部分は小説の脚色なんだろうが、そんな時代でも刀のもつ力とか、そんな時代だからこそ武骨で怒気のある刀を目指したというのは納得できる。
虎徹も、刀という伝統に真正面からぶつかっていった人だったのだろう。だから、虎徹がつくった刀は、いまの日本で重要文化財という伝統の一振りになっている。
さて。自分は、虎徹や太郎を、形として見ているだけになっていなかったか。 「形式ではない。受けつがれるものは生命力」
なのだ。
この太郎の言葉を忘れずに、自分なりに刀に向き合っていこうと思った。 2011.03.13 Sunday
仏陀と神 :とこも
ブッダの言葉にひっかかった。最古の経典と言われるものが紹介されていたページの、 「立派に組み上げられた筏も、 激流を越えて向こう岸に渡ってしまえば、 もう筏としての意味はなくなる。 神よ、もし雨を降らせたいと思うのなら、 大いに降らせるがいい。」 という一文だ。前半と後半のつながりがわからず、ひっかかり、 ブッダが「神」を意識していることに驚き、 前半は諭しの比喩のようだが、 解説にあるとおり、仏教用語として整理された感じでないし、 後半に至ってはブッダの頭の中に浮かんだものを見ているようだった。 初めに読んだときは、降らせるものなら降らせてみろ!という抗う気持ちに見えた。 また読んだときには、どんな雨でもすべてを受け入れる広い大地のような気持ちなのかと見えた。 ブッダは神でなく人であり、悩みの末に解脱したのだな、と改めて納得できた気がした。 そして、人の悩みなど、いくら科学技術が発達したとか言っても2500年前からまったくもって進歩していない。 これだけの年月かけて解決してないのだから、自分ひとりで抗ったところでたかがしれている。 ブッダは、本当はどんなことを話したり考えたりしていたのだろう。 ブッダの時代にYoutubeがあったら、教えはどんなふうに誰に伝わったのだろう。 今の世の中、伝える手段はたくさんあるが、 3000年経っても語り継がれるものはどれ程あるのか。 そんなことを思いました。 2010.11.05 Friday
インド・ナグプール :とこも
インドで考えたこと そういうものを確かめて安心したり喜ぶ気持ちと同時に、 やっぱりその何倍もあった。 ナグプールのブロマイド屋さん。売られているのは仏陀や、アンベードカル博士だ。 2010.06.06 Sunday
「放心を求めよ」を読んで :とこも
放心というと、 「ショックなできごとで放心してしまい…」とか 「あまりの壮大さに、思わず放心。」 といった使い方しか知らず、最初は、 初めて、放心にもいろいろあることを知った。 「初心のうちは心を引き詰め、集中することこそ大事だが、 ステップアップするためには今度は心を行きたい処に行かせなさい 自分を振り返ってみると、 先を示されたことで、 沢庵禅師の『不動智神妙録』も求めて読んでみた。 短い言葉の中に、 心は常に変化する。その心を自由にさせておくことで、 自分自身が自由になれる。 封建制の時代じゃあるまいし、現代の空気の中で、 自由を知ったつもりでいたが、 お釈迦様もすごい。心身とのつきあい方を「文化にまで昇華した」 心を解き放つことが自分らしくなる方法であると言われても、 自分を手放すような不安な気もした。 しかし、 自由でありたい。自分らしくありたいと思った。 2010.01.23 Saturday
演武・三度目の正直 :とこも
気持ちは切り替えたはずなのに、 どうなることやら。 という心配はよそに、無事に斬り終えた。ほっとした。 囚われの気持ちがでしゃばる前に、 足元の玉砂利が不安定だなとか、 リハーサルなし練習なしの演武なんてはじめてだなとか、 まわりザワザワしてんなとか、 そんなことに影響された緊張具合がたまたまよかったのか、 タイキの精魂こめた絵がよかったのかはわからない。 けれどひとつ確かに感じたのは、 わからなくなっちゃったときには最初の基本に戻ればいいのだとい しごく当たりまえのそれに気付かせてくれたこの日の演武でした。 2009.11.30 Monday
箱根奉納演武:しむらとこも
最近、仕事が忙しくって、ろくに稽古ができていないんです。 などと神様に言い訳したところで始まらない。 まぁ〜、当たって砕けろ! と思ったら、 みごと粉砕。 仮標が見事に飛びました。嗚呼。 一年分の稽古の成果のご報告はできませんでしたが、 一年分の迷いと狎れとやらなかった稽古の日数を きっちり教えていただきました。 武徳院の仲間と、箱根の神様に、感謝。 2009.05.25 Monday
ネージュ=「雪」 :とこも
師範が演武をするとのことで、日曜の青山へ。 カルティエとかプラダとか威勢のいいビルの並ぶ街で繰り広げられた舞台は、わたしには「?」のオンパレード。難解。 なぜ、能舞台? なぜ、雪? なぜ、フランス語? なぜ、ギター? なぜ、… ここに刀? 頭の中に「?」が渦まいているところに、「意味なんてない」と、つぶやくような台詞が聞こえてくる。雪野原の遠くから聞こえてくるような、するりと通り抜けていくような感じ。 これだけやってて意味や意図がないわけないだろうに! とツッコミ入れる自分と、いやいやそんなものかもよ、と言うもう一人の自分。 自分のまえにある相手に、なぜと意味を問うたところで意味はない。答えのないものがあったっていいではないか? 降り積もった雪の中を歩いていると、音が吸収されて頭の中で自分の考えが妙に大反響していることがある。そんな舞台でした。 2008.12.05 Friday
神様との距離 :しむらとこも
二度目の箱根での演武。 前回とどれほど違ったのか、何が進歩したのか、 それについては心許ない演武であったけれど、 箱根神社で奉納演武をやらせていただく、 ということの有り難さを、じわりと感じた気がする。 毎回の稽古は、同じようなことの繰り返し。 だけれど、それは一度として同じものではなかった。 冷静に考えれば、至極当たり前なそんなことを 気づかせてくれたのでありました。 ああ。感謝。 2008.10.20 Monday
二度目の『真剣』。 :とこも
最初に読んだときは、 「黙想のとき、師範はそんなこと考えていたりするんだ。 みたいな感じで、 刀の世界の奥深さ、底のなさを正面からぶつけられた気がした。 自分は刀と、いったいどうつきあっていけばいいのだろうと、 なんというか、途方にくれた。 二度目に読み、 それと同時に、『真剣』の出版記念演武のとき、 斬れた斬れないとはまったく違う次元の、 あまりにも歴然とした解き放つものの差を見せつけられた。 自分がどれだけのものを受け止められて、 自分の中に、どれだけのものを蓄積することができて、 そして、 どれだけそれを自在に解き放つことができるようになるのだろう。 そんなことを考えた。 シンプルだからこそ、見えてしまうその違い。 今の時代の真剣の意味は、 |